私は誰なのか?私は誰として生きるのか?

今日の京都は秋の心地よい風が流れる青空が広がっています。

19歳でアメリカに渡った時、最初の1年くらいは「私はいったい誰なのか?」という答えを探していた。

 

日本では常にリーダーで、常に先生たちには「山本、クンちゃん、XXお願いね!XXの面倒見てね!」と頼まれ、みんなをまとめていた。

やりたいからやる

やりたくないからやらない

くだらないから興味ない

やりたければみんなはやればいいけど私はやらない

みんなでやらなければ達成できないなら自分の役割を見つけてやるから

先生が言っているのだからやりなさいというけれどあなたの言葉は理解できない

でも頼まれればやるよ

そんなことをはっきり言う子供だった(相当嫌な子供だったな、、、)

 

周りには「女の子なのだからXX」という言葉もよく言われた。

そのたびに、「で?」と思っていた。

でも兄が亡くなった途端に周りからは「あなたはお兄ちゃんの分も、長男の役割も、、」と言われるようになった。

11歳の子供の私にとっては「は?あなたたちなにいってるの?」「この間までは女の子なんだからお転婆もほどほどにとか、でしゃばるなとか女らしくしていたほうがかわいがってもらえるから、、、って言っていたくせして、今は長男の役割も、しっかりと家を守って、お兄ちゃんの分も両親を支えてとか言うわけ?」と思ったのを覚えている。

 

その時に私は男でもなく女でもなく、長女でも長男の役割でもなく、私として生きていくと心の中でひそかに決めていた気がする。

 

そんな私も19歳で英語もろくにできないアメリカ生活に入り、自分の言葉を表現できないことの苦しさを味わった。その時に言葉の持つ力と意味も考えた。

 

自分の思いを表現できないことはこんなにも自分が小さく感じるものなのか、、、と。

こんなに私の中に色々な思いがあるのに、それを届けることができない苦しさ、むなしさ、孤独。

 

だからあまり表現をしない人を見ると、私はつい声をかけたくなるのかもしれない。

「あなたの中には何があるの?」と。

「その無言にたたずむあなたの中には、きっと多くのものがあるよね?言葉にしてみたら」って。

 

話は戻り、、、

アメリカでアスレティックトレーニングに出会い、男性中心まっしぐらな世界に飛び込んだ。男性には力では勝てない、でも私には彼らにないものがある。常にそう思っていた。

 

男性では目が届かないところに心を配り(オフィスにお花を飾ったり、カラフルな色を着てみたり、試合と公式練習以外ではスポーツポロシャツとカーキーパンツは履かなかったり(単純に自分にはお世辞にも似合うとは思えなかったからだけど、、、)お菓子を持って行ったり~もちろん自分がそれが好きだからだけど)

どうすれば相手の笑顔を見れるかを考え(どうせなら楽しくやろうね!って思うし)

どうすればみんなが快適になれるかなぁって考え

他の人では聞き出せないことを話せる環境を作り(Kunikoだから言うけどさぁ、、、って言ってもらえたら、そういう空間でありたいと思い)

そう思わせてくれたのも、それを私に求めてくれたアスリートや同僚がいたからかもしれない。

 

ずいぶん昔のブログで書いたけど、「言葉も知識も全然足りない私はどうアメリカの大学のアスレティックトレーニングの世界で生きていけばいいのか、、、」と悩んでいた時期。ある選手に言われた、

「なんで誰かにならないとって思うの?どうして他の人と同じようにしようと思うの?KunikoはKunikoで、僕たちは君が女性だから好きなのではなく、日本人だから好きなのでもなく、君がKunikoであるから好きなんだよ。だからKunikoとして生きていけばいい」って。(Thanks, Hanson!)

 

その一言がその後の私の行動や思考を大きく変えた。

「私らしくってなんだろう。性別でも国籍でも年齢でもない、私って、、、。」と。

その言葉があったからこそ、私はその私だから持っているもので歩んでいけばいいと思っていたし、その自分が最大限に生かせる場所を求めてきた。そしてその私を最大限に生かすために学び続けること、学ぶ内容を探し、自分が表現できることを探してきた。

 

私という人間を必要と思ってくれる場所はどこか、、、と。

それが劇団四季だったのだと思うし、今の仕事の形なのだと思う。

 

「私は誰なのか?」

その答えはまだ完全には見つからない。

でも一つだけ言えるのは、「今の私は過去の様々な経験があるからこそで、それは誰も持っていない大切な私の構成要素」

様々な役割を持つ中、私はそのすべてをありがたく思う。

人が私をどう言おうと

人が私をどう見ようと

それはその人が見ている私の一部

それも私、でもそれだけではない私もいる。

 

私という人間は一人である。

その私がなりたい姿にただ向かって歩んでいけばいい。

それを人がどう見るか、どう呼ぶか、どう分類するかはその人の見えている世界でのことだから、気にしなければいい。

 

でも相手が喜ぶ、相手を不快にしない心がけだけは忘れてはならないと自分に言い聞かせる。

 

せっかくの人生、持っているものすべて生かしていきたい。

 

 

 

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